かつての今、東京都23区のあいだはそれぞれ自由に行き来できました。
中野区と新宿区のあいだに巨大なバリケードが作られてもいなかったし、荒川区民が台東区民を襲撃することも、目黒区のお金持ちエリアのレーザー防衛システムが常時起動していることもありませんでした。
東京都の23区は、まだ、別々の都市国家ではなかったのです。
あの日。
東京都の23区がすべて独立宣言をして都市国家となり、ほかの区すべてに同時に宣戦布告したあの日。
東京のすべてが変わってしまったのです。
2070年になぜあんなことが起こったのか、わかるものはいません。
すべての都民の幸福を最大化するはずの都の中央システムが、なぜ人間に反旗を翻したのか。
23の行政区それぞれを司るサブシステムが、なぜその狂った量子コンピュータの決定を承認したのか。
今となっては、いや、当時ですら、わかりませんでした。
社会の運営というものが人間の手を離れて、久しかったものですから。
旧世界の社会は、あまりにも複雑化しすぎていて、その全体像を把握することは、とっくに人間には不可能になっていたのですから。
それぞれの区が独立し、野蛮な戦いが宣言された当初、人びとは戸惑いました。
彼らはシステムの要求に逆らい、ほかの区域の住民と戦うことを拒否しました。
しかし、通信が、食料が、電気が、水が、つまり都市生活者が当たり前だと思っていたものが、ひとつひとつ断たれるたびに、その拒絶の声は弱まり、別の何かがそれに置き換わっていったのです。
人びとは、何を捨てて何を残すか選ばねばなりませんでした。
いろいろな人がいました。
システムにしたがい、ほかの区の住人を襲撃するもの。
何もかも捨てて逃げ出すもの。
単独で、あるいは信頼できる少数のものと組んで、盗みや略奪を働くもの。
絶望して死を選ぶもの。
かつての幻影にしがみつくもの。
コンピュータを神とあがめて救われようとするもの。
あらゆる野蛮の類型が、そこにありました。
ばらばらになってしまったわたしたちは、自分たちと自分たちでないものを区別する必要がありました。
似たものどうしで寄り集まるか、少なくとも、信頼できないもののそばで寝ることを避けなければなりませんでした。
リーダーを選ぶにせよ、あるいは別のやり方でリーダーが必要なくなるようにするにせよ。力を合わせるにせよ、お互いに害をなさない協定にとどめるにせよ。
だれが仲間でだれがそうでないか決める必要がありました。
だれが同族かすぐ判別できるように、ある人びとは同じ服を身につけました。べつの人びとは独自の身振りを考えました。ある人びとは顔にペイントを塗りました。
そうやって、自分たちとそうでないものを分けていったのです。
のちにトライバル、あるいは単に部族と呼ばれる中間社会の始まりです。
ただの衰退?
そういえばそうなるでしょう。
ですが、システムがわれわれに未来を、人間性を、社会性を、帰属意識を、あるいは単に生活資源を供給できなくなったとき。
人びとは部族をつくり、自分たちでそれを供給しようとしたのです。